早出町の遠州大念仏

無形民俗文化財
遠州大念仏保存会
早出組

犀が崖 【宗圓堂】修行

犀が崖 【宗圓堂】修行  平成27年7月15日


早出町には、「遠州大念仏」があることをご存知ですか?
正式には【無形民俗文化財 遠州大念仏保存会 早出組】と、言います。
毎年(7月13日)初盆を迎える家の庭先で、故人の供養として大念仏の回向修行をしております。
大念仏団員は40名前後で構成され、町内を問わず、各方面から参加して下さる方が増えてまいりました。
団員の構成は、男女問わず年齢10代~80代、近年は若い女性の参加が目立ちます。


毎年7月1日から練習を開始し、

  • 12日=お寺・薬師堂
  • 13日=町内の初盆宅
  • 14日=町外の初盆宅
の回向に回っております。

装束については、笠・ゆかた・帯・たすき・雪駄・足袋等すべて団から貸与されます。


遠州大念仏の由来

元亀3年(1575年)12月、徳川家康は、武田信玄と三方原に於いて合戦をくり広げ、大敗を喫し浜松城へ逃げ帰った。追ってきた武田軍は、浜松城の手前で日が暮れたため、「犀ヶ崖」の付近に野営をすることになった。

家康は、反撃しようと一計を案じ犀ケ崖に、にせの橋(布で作った橋)をかけて、背後から鉄砲で脅し、布の橋を渡ろうとした武田軍を崖から谷底に追い落とした。その後、犀ケ崖付近では、人や馬のうめき声が聞こえ、疫病が蔓延した。
家康は、これを武田軍の「たたり」と考え念仏で供養したところ「たたり」は治まった。

以後、家康は大念仏に「三つ葉葵」の紋付羽織の着用を許し、毎年7月に念仏踊りを奨励し、各地で大念仏が盛んになったと、言いつたえられている。


早出組について

明治中頃より始められたと思われる。保存されている太鼓の胴の内側に明治20年8月と墨書きされている、この年に新調されたものと考えられる、しかし、代金をお金で払うことができず、着物を以てその代金に替えた、という記録がある。
早出組も本部結成の昭和初期のころ、具体的には昭和5年に「ゆかた」を揃えた経緯がある。

これにはエピソードがあって、当時上島組が着流し風に羽織を着ていたため、対抗意識があったわけではないと思うが、早出は「ゆかた」を揃えようと、この時に現在も愛用の【御所車】を染め抜いた浴衣が採用されたと伝えられている。

更に今と異なり国も地方も裕福な時代でなく、「水飲百姓」と言われた頃の貧しい農家ばかりの地方であるから「提灯」一つ作るにしても、先立つ物がなく、虚無僧姿に身を包み尺八を鳴らしながら一軒々々托鉢をして回った。

そのようにして集まった浄財で「提灯」を作ったという話は当時の人たちの中では有名な話である。また「緋灯篭」に至ってはメンバーたちの手作りであったと、言われている。どうした訳か、「双盤」の記録は残っていないが、どうやら「たらい」を伏せたような『鉦』を使用していたと言うのが事実に近い。

早出組の正式入団は、昭和9年と記録に残っている。当時の團費は3円50銭太鼓2個20円との記録も同様に残されている。

終戦後のことについては、他の組と大きな違いはないと思われるが、早出組は終戦の翌年、つまり昭和21年青年会のメンバーによっていち早く復活した。

最後に一つだけ印象深いことを述べさせて頂きたい。

この年(昭和21年)要請により浜松駅前での回向をした。浜松市で戦争を経験した人たちには、とても忘れることのできない生々しい出来事の一つに、市の中央部を焼け野が原にした艦砲射撃がある。浜松駅前に大きな防空壕があり、艦砲の直撃を受け沢山の犠牲者を出した。この多くの尊い命を失った方々の霊の回向である「大念仏修行」を浜松駅前広場で大々的に行った。

園芸・芸能の乏しい時代で、黒山の人達の好奇な眼差しを受ける中で、皆、汗びっしょりで努めた。

このような経緯があって、70年余り経過した現在に至っています。


大念仏早出組の責任者

組 頭伊藤 好弘  (中根西)
副組頭川合 秀和  (中根西)
副組頭間渕 篤彦  (中根東)
事務局川合 償吉  (中根西)