浜松まつり

 浜松祭り参加に向けて凧揚げが話題に上ったのは昭和56年8月。父親ソフトボール仲間の提案で集まった12人が世話役となり、自治会や先輩町の理解と応援を得ながら取り組みを開始。57年4月には町内の圧倒的な支持を集め、明るく住みよい町づくりを目的に町内の各種団体を網羅した「中堅会」を立ち上げ、翌年からのまつり参加を目標に第一歩を踏み出すこととなった。

 そして58年5月に初参加とはいえ、中田島の凧揚げ会場では早出町民のパワーと団結の強さを物語る堂々たるデビューを果たした。61年からは自治会が責任を持つ町内行事として位置づけれて町民の絆を一層深める原動力となった。また、平成2年竣工の屋台建設へとつながっていった。
 以後、早出町凧揚げ会(早出連)として精力的な活動が続き、加賀百万石まつりの金沢、ポートピアまつりの神戸、市制百年祭アートカイトフェスタの姫路へと次々に遠征を行い、平成2年からは外国からも招待を受けるようになり、多くの海外遠征も行い、浜松市との都市交流の一助を果たすようになっている。

活動の歩み

発足 
昭和58年5月浜松まつり初参加  890名の参加
遠征 
昭和59年6月加賀百万石祭り凧揚げ遠征 (金沢商工会議所の招待)
昭和60年5月神戸ポートピア祭り凧揚げ遠征(神戸商工会議所の招待)
平成元年4月姫路市市制百年祭アートカイトフェステバルに参加
 (以後、アートカイトフェステバルは大阪ドイツ文化センターの招待)
平成2年4月フランス・パリ市 アートカイトフェステバルに参加
平成4年6月スペイン・セリビア市 アートカイトフェステバルに参加
平成5年7月カナダ・モントリオール市 アートカイトフェステバルに参加
平成7年1月オーストラリア・シドニー市 アートカイトフェステバルに参加
平成7年10月アメリカ・アトランタ州での有効凧揚げ大会に参加
平成10年3月インドネシア・バリ島でのジャパンフェスタに参加
平成10年9月ルクセンブルグ・ルクセンブルグ市 アートカイトフェステバルに参加
平成12年8月ドイツ・デトモールド市 アートカイトフェステバルに参加
平成14年10月中国・浙江省の杭州交流凧揚げ大会に参加
 20周年記念事業
 
平成15年4月記念誌の発行
 近年の推移
 
平成27年5月浜松まつり参加者 616名
平成28年5月浜松まつり参加者 551名
平成29年5月浜松まつり参加者 622名

課題

 発足時に比べて中堅会の組織力が弱まってきており、若者はもちろん他町での経験者やベテラン、さらには女性の参加が待たれる。

凧揚げ会
凧揚げ会
凧揚げ会
凧揚げ会
凧揚げ会
凧揚げ会

 

早出町屋台の案内

早出町で屋台の建設が話題となったのは、1985年(昭和60年)5月頃。
翌86年5月には屋台建設研究会が発足し、一年有余の調査研究の結果、屋台建設委員会が設置され、屋台建設に着手。
二年余りの歳月を経て1990年(平成2年)4月29日の吉日に、落成して現在に至っています。

屋台の概要

早出町屋台の外観は、浜松屋台の典型として、大唐破風(おおからはふ)、軒唐破風の重層(二階建)の御殿屋台。
正面から見ると両翼を左右に大きく張った上下の軒付、又棟の鬼板まで見上げると、均衡のとれた屋台です。
作棟梁は、浜松出身の宮大工 長谷川廣師です。

※早出町屋台の諸元
高さ(正面  鬼板頂点より)5m15cm
幅(正面  軒付~軒付)3m65cm
長さ(側面  軒付~軒付)5m22cm
重さ3,900kg

屋台

彫刻の概要

屋台の魂である彫刻は、尾張藩御用彫師である、名古屋の「彫長」の流れをくむ浜松の山田峨聖師の作で、
そのテーマは、古事記や日本書紀の中の最もポピュラーな神話や伝説の中からとりあげております。

※屋台の正面最上部から
・応神天皇と武内宿禰(たけのうちすくね)
・八俣大蛇退治(やまたのおろちたいじ)
・天の岩屋戸の祭祀
・巻龍

※屋台の後側面上から
・因幡の白兎
・事代主命(ことしろぬしのみこと)
・海幸、山幸
・少名毘古那神(すくなひこなのかみ)
・弟橘姫(おとたちばなひめ)

屋台の正面最上部

屋台の正面最上部

屋台の後側面上

屋台の後側面上
練り・屋台
練り・屋台
練り・屋台
練り・屋台
練り・屋台
練り・屋台
練り・屋台
練り・屋台
練り・屋台